いつまで

帰り道、宇宙との境目が曖昧になったような深い青色の空を見て大きく息を吸い込む。目から涙がこぼれて、頬で冷たくなった。



日常の中で泣きたくなることがたくさんある。

朝、自転車置き場のおじさんにお弁当作ったきた?と聞かれて作ったと答えると偉いねえって褒めてくれるときや、ありがとうと言ってもらえたとき、帰りの更衣室で「皆さんすっかり冬の装いですね」と話しかけてもらえたとき。ぶつかりそうになっておじさんに舌打ちされたときや、どれだけ言葉を重ねても言いたいことが伝わらないとき。空がきれいだったり、知らない家からシャンプーや煮物のいい匂いが漂ってきたとき。


喜びのスイッチはたくさんの条件と暗証番号が合わないと押せないのに、悲しみのスイッチは簡単に押せる。

全ての感情を悲しいに変換してしまうから、そう感じるのかもしれない。

いつも悲しい。いつまで悲しいんだろう。



羊数える

朝起きて、布団を畳み、目を覚ますためにカーテンを開けてみたが太陽はまだいなかった。がっかりして窓に触れるとひんやりして心地よかった。そして夏はせわしなく降り注いでいた蝉時雨の代わりに、コオロギの涼やかな鳴き声で部屋の中は満ちていた。

また季節がひとつ過ぎようとしているのに、私はぼんやりしたままついていくだけだなと思う。

ニュースキャスターのお姉さんは今日も笑っていた。



厚い雲に敷き詰められた空には電線が映える。晴れの日の草木は洗濯物を取り込んだときみたいなあったかい匂いがする。秋の夕焼けはやっぱり絶望的な気分になる。


明日は晴れがいいな。台風は途中で温帯低気圧に変わってください。



日付が変わってしまったけど、今日はまだ眠れそうにないなあ。


金木犀

金木犀の香りがして思い出したことがある。

それは私が4歳くらいのときのこと。祖母の家の窓際、それから畳と日向と橙色のイメージが頭に浮かぶ。

外から摘んできた金木犀の花をプリンのカップに入れて畳の上に置いておいた。目を離した隙に猫がそのカップをひっくり返してしまったから、私は泣きながらその猫たちを叱った。それを見た祖母が私をなだめる、というところまでを思い出す。


おばあちゃんという人間は、例えばスーパーで林檎を3つ買うのだけど、家に着いたときにはひとつも手元にないような人。帰り道でばったり会った知り合いとしばらく立ち話をして、それからおみやげにと言って林檎をあげてしまうのだ。

私はそんなおばあちゃんがとても好きだったと思う。

お家に泊まりに行くと夜ふかしをさせてくれたし、近所のおばちゃんが飼っている犬のちびと散歩に行って、拾った野花や葉っぱで飾り物を作らせてくれた。春はつくしタンポポを摘み、夏は桑の実を帽子いっぱいに摘んで歌を歌った、秋はどんぐりに顔を描いて、冬は毛布にくるまりながら深夜の怖いテレビを一緒に観た。

そうだそうだ、おばあちゃんと過ごす夜が、とても好きだったんだ。思い出した。


雨の日は金木犀がより濃く香る。ささやかな幸せに包まれながらあたたかい記憶に浸り、優しいきもちになった、そんな今日の夕暮れなのでした。

6月と夜と紫陽花のこと

6月も半分が過ぎて夏の匂いが少しずつ濃くなってきた。窓を開ければ入ってくる心地よい夜風を肌で感じながら眠る夜も、そろそろ終わりかな。

私は紫陽花が好きだ。紫陽花がもってる色彩や発色の仕方が好きだし、ハイドランジアもガクアジサイも花束みたいに華やかで素敵。枯れていく姿を見るのは少し寂しいけれど、美しいとも思う。それに花の色が土の含まれている成分で決まるところとか、日が経つにつれて変色するところなんか、とっても面白いなあと思う。紫陽花の花言葉はいくつもあり、暗い内容と明るい内容のどちらも存在することはこれに関係してそう。ああ面白い。

私は花を見て「綺麗だね」という話をすること、雨の日に散歩をすること、晴れの日に干したお布団に顔をうめてお日様の匂いがする…!ということとか、そのようなことを大切にしたい。季節のこと、雲の動きや音、風の流れ外の匂い 私が立ち止まりジッとしているときはそういうのを体で受け止めている。不思議ちゃんって言うのはナシね。

私ははじめの手続きみたいなものが苦手だ。誰かと出会って「この人はどんな人なのだろう」と興味をもちその人と関わり始めること、逆に興味をもたれること。小説の世界に入り込むまでの時間。日記の書き出しとか。その手続きの段階で面倒くさくなり、ワクワクした気持ちだけを心の中に残してそっと離れてしまうことが多い。だからとりあえず、はじめの挨拶としてこの文章を残しておこうと思います。